大河ドラマの主人公 新島八重

大河ドラマフリークなので2013年の大河ドラマの主人公新島八重について情報を集めてみました。
主役の八重は綾瀬はるかということで楽しみにしています。【送料無料選択可!】新島八重 スペンサー銃からバイブルへ八十七年の軌跡 (単行本・ムック) / 笹川壽夫/著

新島八重の生涯

1845年 会津藩砲術指南役 山本権八の三女として生まれる。
1865年 21歳 兄、山本覚馬が砲術の指導に招聘していた川崎尚之助と結婚する。
1868年 24歳 鳥羽伏見の戦いが始まり、弟は闘いの傷が元で江戸で死亡、兄の山本覚馬は薩摩藩に囚われる。さらに会津藩は奥羽列藩同盟を結成、政府軍に敗退して会津鶴ヶ城に籠城、八重も得意のスペンサー銃で奮戦するが、父、権八は戦死、合図藩自体も降伏となり、「明日の夜は、何国の誰かがながむらん、なれしお城に残す月かげ」という後に有名になる歌を城壁に残したとされる。
1871年 26歳 京都府に登用された兄、山本覚馬のいる京都に母や姪を連れて向かう。
1875年 京都で女紅場の権舎長兼機織教導試補となる。最初の夫、尚之助死亡、すでに離れて暮らしていたが詳細は不詳。
1876年 31歳 洗礼を受け新島襄と結婚。女紅場を解雇される。同志社英学校開校。
1882年 37歳 新島襄と共に会津に行く。
1889年 44歳 新島襄、大磯に転地療養。
1890年 45歳 新島襄、死去。日本赤十字社員となる。
1896年 51歳 日清戦争で篤志看護婦として廣島陸軍予備病院で勤務したことに対して勲七等宝冠章が授与される。
1906年 61歳 日露戦争で篤志看護婦として大阪陸軍病院で勤務したことに対して勲六等宝冠章が授与される。
1924年 79歳 皇后が同志社女子学校行啓の際、単独謁見。
1928年 83歳 秩父宮と松平容保の孫の成婚を喜ぶ。
1932年 87歳 新島八重 死去。
(歳は数え年)

主な出来事、トピックス

参考図書から拾いました。

日新館童子訓、什のおきて

八重の娘時代の記録は本人の回顧談や、知人の話が残っているだけである。知人の話によれば裁縫も習いに来ていたが、本人が語ったところによるとかけっこ、石投げでも男の子に負けておらず、世が世なら運動選手になっていただろうと語っている。また、男の子の教育用に作られた「日新館童子訓」や、「什のおきて」を七歳の時から暗誦しており、この教えが八重の根底を流れる考えとなった。
什のおきて
一、年長者の言ふ事に背いてはなりませぬ
二、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ
三、嘘言を言ふことはなりませぬ
四、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。

川崎尚之助との結婚

兄の山本覚馬が出石藩の藩医の子、蘭学者の川崎尚之助を日新館蘭学所の教授として招き砲術を教え、山本家に寄宿、やがで八重と結婚する。八重は後年まったくこの結婚には語っておらず隠していたとも考えられる。尚之助は八重と一緒に鶴ヶ城篭城に参加する。尚之助とは夫婦で会津側の砲撃で活躍した。その後、八重とは離れて会津藩の移封先の斗南藩に行き、そこで困窮した藩士のために函館で食料調達使用としたが契約の際にトラブルとなり、裁判の為に東京に送られて東京で死んでいる。八重との関係、離縁していたのかどうかなどは明確になっていないが、尚之助死亡の際は八重はすでに京都にいた。

会津鶴ヶ城に籠城

鳥羽伏見の戦いに会津藩は敗れ弟、三郎もその時の傷の為に死亡する。やがて戊辰戦争となり会津藩は鶴ヶ城に篭城に篭城することになる。八重は当時の最新式であるスペンサー銃をたずさえ弟の形見で男装をして入場。銃撃戦や夜襲にも参加、敵の弾がかぶっていた帽子にあたったり、袖を破ったりしたこともあった。また、砲術の知識を生かして砲撃でも目を見張る活躍、敵の大砲の弾について藩主の前で分解して説明も行っている。
スペンサー銃

当時、会津藩で使われていたゲーベル銃は先込式の銃で玉を長い棒で突っ込むというものだが、このスペーサー銃はアメリカの南北戦争で開発されたばかりの弾倉装填式最新式で7発の玉を装てんすることができ、命中精度も格段に高かった。八重はこの銃持参して、篭城戦初日の会津側の精鋭たちがまだ城に入場できていない状況での防戦で活躍、一説には敵の砲隊頭を務めていた大山巌の足を撃ち抜いたとされる。

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焼弾押さえ
敵の弾が着弾してから爆発するまでの間わずかな時間があり、この間に濡れ布団などで導火線を消火してしまえば爆発を免れた。「しゅるしゅると音がしている間は消せる。ただ、危ないと思えば逃げて」と八重が皆に教えていた。 そのおかげで、婦女子が中心となり弾の爆発を抑えたことにより、激戦の中でも天守閣を始め、本丸はその姿を残すこととができた(ただしお城は明治7年に取り壊された)。また、焼弾押さえで消した弾を抱えて藩侯の松平容保の御前に参上し、弾を分解しながら、弾が爆発したら破片がどのような破片が飛んで威力があるかということを若い女ながら理路整然と説明、城内にその名を知らしめた。
明日の夜は、何国の誰かがながむらん、なれしお城に残す月かげ
八重が開城の前夜に城壁に残した有名な歌だが、いろんなところに引用され「お城」部分が、「御城」、「みそら」、「おう樹」だったり、「残す」が「残る」だったり、いろんな本文異同が存在する。また、その時の夫の川崎尚之助が歌ったものとしているものもある。本人が晩年書いているのは上記のものだが、当時本当はどう詠まれたかははっきりしない。

新島襄との結婚

兄、山本覚馬から勧められ英語や、キリスト教を学んでいる時、アメリカに密航後、洗礼を受けて帰国した新島襄と知り合い結婚する。結婚の前には洗礼を受けキリスト教式の結婚式をあげる。クリスチャンの新島襄と結婚したことにより、女子教育の学校、女紅場を解雇される。

同志社設立と新島襄の生活

兄、山本覚馬の協力もありキリスト教精神に基づく学校、同志社を設立するが仏教の影響力の強い京都ではいろいろな反発に会う。特にレディーファーストを実践して、夫よりも先に人力車を降りたり、夫を「ジョー」と呼んだり、和服にハイピールと帽子をかぶったりした八重は身内の同志社の学生であった徳富蘇峰からも鵺「伝説上の化け物」のような夫人として糾弾される。

薩摩嫌い

会津の敵としては長州が真っ先に上げられるが、新島八重は鶴ヶ城の篭城戦で薩摩と直接戦ったためか薩摩が嫌いて、自宅で催すカルタ大会にも薩摩の生徒を招かないなどの意地悪をして新島襄を困らせていた。キリスト教のすべての人を愛せとの教えにも反していた。だいぶ後に薩摩出身の学生を自宅に招いたという知らせを新島襄が療養先で聞いたときは大変喜んだ。

新島襄の病気と死

担当医から新島襄の心臓の病気は全快する可能性はなく、卒中で死ぬ可能性もあると聞かされると献身的な看病をするようになる。新島襄が筆まめでいつも手紙を書いているのが体に障ると考えペンと便箋を取り上げて襄を嘆かせたり、寝づの看病をして襄に「私より早く死んだら困るから寝てほしい」と言わせたりした。襄はあとに残る八重の生活を心配して大和の山林王に共同事業を呼びかけ利益を八重に分配するように頼んだ。そして、1890年、「グットバイ、また会わん」という言葉を残して新島襄は逝った。

従軍看護婦としての活躍

新島襄の死後、一人になった八重は日本赤十字の社員となり、日清、日露戦争で篤志看護婦として活躍、これにより皇族以外の女性としては初めて勲六等宝冠章を授与される。

老後の生活

一人になった八重は、日本赤十字の社員としての活動をする一方、茶の湯のとりこになり、のめり込んだ。師範になったが道具に懲りすぎでお金に困ることもあった。また、朝風呂の習慣があったが勝気な正確なために、同じく茶道の師範の年寄りと一番風呂を争い負けると入らずに帰ってしまったという話や、屋敷に賊が押しかけてきたら誰もいない二階に男が何人もいるような感じで声をかけて賊をあわてさせて追い返したなどの逸話が残っている。

秩父宮と松平節子の婚儀

昭和に入り昭和天皇の弟、秩父宮と松平容保の孫に当たる松平節子の婚儀が決まる。長らく賊軍の汚名を着せられていた会津の名誉が回復されたことになり、八十四歳の八重は上京して松平家を訪問して「いくとせか、みねにかかれる、村雲の、はれて嬉しき、光をそ見る」という歌を詠む。このあと八十七歳(数え年)で死去。

参考書籍

 アマゾン 私の感想 
新島八重 愛と闘いの生涯

 「はじめに」でNHKの大河ドラマに新島八重が取り上げられた事から語られており、大河ドラマにあわせた本のようだが書いたのは同志社女子大学の日本語日本文学科の先生で、いろいろなのエピソードとその根拠文献をそのまま転載しているものも多く、バラバラした感じはあるが結果として十分なボリュームで読み応えのある本となっている。同志社の先生のためか和歌の引用、説明も多い。とくに有名な「明日の夜」の有名な歌は色んな解釈や本文異同があるところが興味深い。本人と関係者の資料を中心に作られたためか、どちらかというと後半の人生についてが多いがとりあえず読む一冊としては良いと思う。ただ、昔のカナで書かれた文章の引用はちょっと読みにくかった。
★★★★
新島八重の維新

 新島八重の生涯と維新の流れを順を追って説明している。特に維新の時代的背景や、戊辰戦争、会津、徳川方の人の薩長に対する感情についても触れられており幕末好きにとっては面白く読みやすい本。また、この本には川崎尚之助が斗南藩に行ってからも、藩士のために米を確保しようとしてトラブルに巻き込まれ裁判の為、東京に送られそこで死んだと書かれている。ただひっそりと死んだということではないので他の本の印象とは違う。八重の生涯を描いているが会津人としての八重に重きを置いている。
★★★★★
 明治の兄妹 新島八重と山本覚馬

有名な小説家の早乙女貢が山本覚馬と新島八重について歴史小説として書いているもの。一冊の本としてはちょっとボリュームが少なく歴史小説としては物足りなかったが、読みやすく気軽に読めるともいえる。また、八重よりも覚馬について部分が多い。巻末には新島八重回想録が収録されている。
★★★
 日本の元気印・新島八重 (新島襄を語る)

2010年に「ハンサムに生きる 新島襄を語る」という新島八重の本を出していた同志社大学神学部の先生が、その別巻として大河ドラマに採用された背景から、大河ドラマでどう描かれるかなども触れながら新島八重の生涯について書いた本。これは別巻(一)で会津の話しが中心となっている。別巻(二)は京都に移ってからの話しが中心になるという。素直な便乗本であるが、もともと研究していた人が書いているので面白い。
★★★★
新島八重 おんなの戦い 

新島八重を中心にその回りの女性の活躍にも触れている。作者が小説家なので細かな話しは歴史小説のように断定して書いているところもあり、楽しく読める。特に会津の篭城戦の話しなどは焼弾押さえの話しなど具体的に説明されていて面白い。川崎尚之助については、藩士になっていなかったとされたり、斗南にいたことが懐疑的にかかれている点は残念。全体的に会津時代の話が多く大河ドラマの副読本としては適している。
★★★★
小説・新島八重 会津おんな戦記
新島八重の話しだが、この本は会津が破れて兄の山本覚馬が京都で生きていることがわかり、京へ向かって立つまでを描いた本でこの本の中では新島襄は出てこない。対をなす「小説・新島八重 新島襄とその妻」がある。出だしはよかったのだが、後半はちょと冗長な感じがした。また、川崎尚之助は本当は斗南藩まで行っているはずなのに開城直前に会津を去ったことになっているし、山本覚馬の妻のさくが、ただ京都に行くのが怖いという理由で京都に行かないということになっていたのは、納得がいかないし小説としても面白みに書ける。文庫本なので安い点や、大河ドラマは会津中心で描くらしいので大河ドラマの予習としてはよいと思う。★
 小説・新島八重 新島襄とその妻
前述の「会津おんな戦記」の実質的な後編だか会津おんな戦記よりも事実として確認できることや、八重の回顧談等が多いためか、創作を抑えた記述で好感が持てる。新島襄の死でその後の八重についての記述かないのもテーマがはっきりして良い。事実と思われる事を継ぎ合わせながらも新島襄と八重の夫婦愛が感じられる作品となっている。★★★
女たちの会津戦争
 
戊辰戦争で会津藩士の家族がとった行動、その後についてまとめられている。官軍が城下に攻め込んでくると足手まといにならぬよう多くの女、子供が壮絶な自決をしている。城に上って篭城に参加したもの、戦場から離れた人、凄惨な自決を選択をした人たちの話が一番印象的であった。★★★★
会津藩VS長州藩―なぜ“怨念”が消えないのか

八重については1行も触れられていないが(山本覚馬は少し触れられているが)幕末から戊辰戦争、そして敗者である会津の人の心情を理解するためには、長州、薩摩との歴史は欠かせない。歴史は両藩のぶつかりを時代を追いながら書かれていて良い。ただ、この本は長州、会津の戦いを最終的には、引き分けとしているがどうも福島県と山口県を和解させるというイベントに引っ張られているようでに納得が行かない。やはり、最終的には会津は敗者でしょう。また、最北の斗南への移封、福島県の県庁が会津若松にならなかったことや、国立大学の設置が一番遅かったことも薩長閥のいじめといわれているのでこの辺にも触れてほしかった。★★
会津藩VS薩摩藩 

新島八重は同志社の薩摩出身の学生を冷遇したような逸話があるので会津藩と薩摩藩の関係を確認するにはよい本。ただし新島八重はぜんぜん触れられていない。この作者によると会津は薩摩を長州程は憎んでないようである。幕末の歴史で会津はまじめに誠実に動き敗者になり、薩摩は会津と袂を分かち、狡猾に戦略的動き勝者になったように描いている。ちょっと、作者が会津に心情を寄せているために薩摩を冷たく描いているようにも思う。全体的には薩摩中心の記述でそれに対する会津の動きを書き足している。★★★

その他の新島八重の関連書籍